2009年06月16日

いわゆる毛繕い全身をくまなく舐める

いわゆる毛繕い。全身をくまなく舐める。舌の届かない部位(顔・首・頭など)については前足に唾液を含ませて拭くように動かす。また、足を舐める際に爪を噛んで引っ張ったりもする。

乾燥した地域を進化上の故郷とすると思われるネコ科は元来、飲水量が少ない動物で、体内で水を有効に使うために尿の濃縮率が高く、濃い尿を出す。そのため、腎臓への負荷が高く、ネコの病気の7- 8割は腎臓の病気である。特に塩分の摂りすぎには注意が必要である。また、水は水道水がベストであり、ミネラルウォーターは飲ませないようにすること。

顔を物にこすりつける [編集]
俗に「すりすり」と呼ばれる。フェロモンを物体に付着させ、縄張りを示すためと言われる。飼い主など、人に対して行われる場合は、親愛の情を示す意味や、餌などをねだる意味があると言われる。

獲物を持ち帰る [編集]
ネズミやスズメなどの獲物を捕まえた際、その場で食べずに安全な場所まで運んでから食べる習性がある。母猫の場合は子猫に獲物を与える事で何が食べられるのかを教える。特に生きたまま与える事で狩りの訓練をさせるという側面がある。飼い猫や地域猫の場合も、よく懐いた人の元に獲物を持ち帰ったところを発見される事がある。

飼い主の所まで持ってくる理由は定かではなく推測の域を出ない。飼い主が狩りを下手だと思って餌を分け与えているとも考えられるし、よく懐いた人間を家族と見なしているゆえの行動かもしれない。前述のようにネコは家族に餌を運ぶ習性がある。そうであるとするなら、一種の家族愛と言い換えられもしよう。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

実際に持ってこられた場合、たいていの人は驚くと思うが、ネコは善かれと思ってやっている事なので、無碍に扱うとショックを受けてストレスを溜めてしまう事がある。よって、冷静に対応し、獲物の処分はネコが見ていないところでそっと済ませるのがよいとされる。

草食・穀物食 [編集]
ネコは肉食動物であるが、日本の家庭では人間の残飯の冷や飯に残り汁をかけた「ねこまんま」をネコの飼料として与えることが普通だった。コメなど植物性の餌を主に与えてネコを飼育することは世界にもあまり例がない。

またネコは燕麦など背の低い草を食べる習性がある。理由は未だ明らかでないが、毛繕いのときにどうしても呑み込んでしまい蓄積した体毛を、草の繊維に引っかけて、まとめて排泄するためとする説や、植物性のビタミンや葉酸を草から直接摂取しているなどの説が有力である。どのネコにも共通しているのが、イネ科植物を好んで食べるということである。ペットショップでは飼い猫用に「猫草」として種や栽培キットなどが売られている。

蛇を食べる [編集]
野生に近いネコはヘビを捕食する能力がある。基本的にヘビより敏捷であるため、咬まれるケースはほとんど無く、また、ヘビの毒に対する耐性も強い。日本猫の場合、成猫がマムシの毒で死ぬ事は無く、獲物を家屋に生きたまま持ち帰るケースも見受けられる。

ただし、敏捷性や毒への耐性はネコによって個体差がある。

2009年05月30日

桓帝 (漢)

桓帝(かんてい)は後漢の第11代皇帝。蠡吾(れいご)侯劉翼の子。河間王・劉開の孫。章帝の曾孫、順帝の族弟(劉一族中の年少の“いとこ”に当たる)。

質帝が梁冀により毒殺された後、権勢保持のために梁冀とその妹の梁太后によって反対を押しのけ擁立された。即位後は質帝の代と同様に梁冀の専権が続き、梁冀は妹を桓帝の皇后に立て、一族から7封侯・3皇后・6貴人(妃の位)・2大将軍を輩出し、梁氏最盛期を現出した。梁冀は李固を殺害するなど、反対者に対する弾圧を強めた。

この専横に反発した桓帝は、宦官の単超の助力を得て梁冀の邸宅を包囲して誅殺、一族もほぼ全員に当たる300名以上が粛清され、そのために朝廷での人材不足が発生したと史書は伝えている。

梁冀粛清後に親政を始めると、功労者の単超を2万戸の侯に封じ、その他の宦官たちに対しても恩賞を与えた。梁冀の専横は排除したが、この政変により今度は宦官たちに権力が集中することとなる。宦官に養子を認め、財産相続を認めたことにより世襲貴族を志向する者も現れるに至った。この時期に権勢を誇った宦官に、魏の祖となった曹操の祖父曹騰もいる。
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党錮の禁 [編集]
宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚、豪族勢力は、宦官を儒教的に穢れた存在として対抗、宦官を濁流、自らを清流と称しての政争が始まる。

延熹2年(159年)、河南尹李膺が宦官の犯罪を摘発しようとしたところ、逆に投獄される事件を契機に、宦官勢力は豪族たちを党人、徒党を組んで政治を乱す者と見做し弾圧を行った。李膺は後に許されて司隷校尉となり、宦官を恐れずに摘発したことで名声を高める。その後清官として名声があった陳蕃と共に幹部官僚予備軍たる太学(大学)の学生たちの支援を受け両者は宦官への糾弾を開始するが、延熹10年(167年)に宦官たちはこれに大規模な弾圧で対抗した(党錮の禁)。

党錮の禁で逮捕された人数は200人に及び、逮捕者は無罪とされた後も免職され以後の仕官の道が閉ざされた。この処置は清流派の強い不満の原因となり、清流派の代表である李膺・陳蕃の名声はますます高くなった。桓帝崩御後には陳蕃による宦官誅滅作戦が行われたが失敗、再び宦官たちによる弾圧(第二次党錮の禁)が実施され、清流派と宦官の対立がますます深まることになる。

宦官の専横が後の黄巾の乱の要因となり、豪族と宦官の対立が黄巾後の戦乱の時代を生むことになった。桓帝の時代には後漢の滅亡の要因となる清濁の争いの原因が形成された時代である。

特筆すべき事例として、延熹9年(166年)に大秦(ローマ帝国)国王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節が入朝している。

2009年04月27日

クリーペル

ロシアが開発を検討中の有人宇宙船で、ソユーズを代替する。釣り鐘型のカプセルだが、小さな翼を取り付けた案もある。エンジン部分は宇宙にとどまって繰り返し使われる。打ち上げにはアンガラロケットを使用する。ESAやJAXAに共同開発を打診しているが、後にESAとの間には次のCSTSという計画が立ち上がっており、こちらに統合される可能性もある。

CSTS
ESAとロシアが開発を検討中の有人宇宙船で、ソユーズを代替する。有人カプセルと脱出装置、打ち上げロケット(恐らくアンガラ)はロシアが、推進部はESAが開発し、2014年実用化を目標としている。ESAでは、次のATV発展型とどちらが採用されるかは決まっていない。JAXAにも共同開発を打診している模様だが、JAXAから正式なコメントはない。

ATV発展型
ESAが開発を検討中の宇宙船で、まず貨物回収カプセルを搭載した無人型を、続いて有人カプセルと脱出装置を備えた有人型を開発する。打ち上げにはアリアン5を用いる。CSTSとは異なりヨーロッパ独自の計画だが、ESAはCSTSと比較検討している模様である。

HTV発展型
JAXAが開発を検討中の宇宙船で、当面は貨物回収カプセルを搭載した無人回収機の開発を見込んでいる。打ち上げにはH-IIBを用いる。有人型についても検討は開始しているが、開発可否の判断は2015年頃に行うとされている。

アレスV
月往復用の大型貨物ロケットであるアレスVを、ISSに利用する案もある。アレスVは地球低軌道に130tもの貨物を輸送可能であり、アルタイル着陸船を改造した軌道変更ユニットを取り付けることで大型のモジュールをISSに届けることが可能になる。しかし、NASAは軸足をISSから月面開発に移しつつあり、この案が活用される機会が到来するかは不明である。

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計画中止
X-38 CRV
乗員帰還機(CRV)としてNASAが開発を進めていた宇宙船である。X-24実験機に似たリフティングボディ形状の機体であり、6名が搭乗することができる予定だった。大気圏内での滑空実験などが行われたが、コロンビア号事故後の計画見直しで2002年に開発がキャンセルされた。

COTS
NASAは2010年のスペースシャトル退役後、後継のオリオン宇宙船が就役するまでの間に人員や貨物を輸送できる輸送機を民間に求め、補助金を用意した。その結果、スペースX社のドラゴン宇宙船と、ロケットプレーン・キスラー社のK-1宇宙船が採用され、2009年の就役を目指して開発が開始された。しかし、K-1は完成の目処が立たず契約をキャンセルされたため、残る補助金はオービタルサイエンス社のシグナス宇宙船に与えられることになった。

ただし、これらの輸送機は2009年1月時点でもテストを開始しておらず、当初予定どおりスペースシャトル退役までに就役する可能性は低い。結局、NASAは人員輸送にはソユーズ、貨物輸送にはATVやHTVを利用する可能性が高いとみられている。

2007年1月に中国は、老朽化した人工衛星を衛星攻撃兵器?で破壊する実験を行い、その結果追跡可能なものだけでも900個以上のスペースデブリが発生した。このデブリは国際宇宙ステーションに衝突する可能性もある。
トラスの名称「S1」のSや「P1」のPは、それぞれ船の「右舷」(Starboard Side)、「左舷」(Port Side)からきている。また、「Z1トラス」のZは「天頂」(Zenith)からきている。

2009年04月11日

後期重爆撃期

木星型惑星の移動による重力の釣り合いの変化によって、多数の小天体が内部太陽系に侵入し、それ以前の元々小惑星帯にあった物質が枯渇して現在の状態になった[40]。これが引き金となって、約40億年前の後期重爆撃期が起こった[1][52]。後期重爆撃期は数億年も続き、月や水星のような内部太陽系の地質学的に死んだ天体ではこの時の名残のクレーターを現在でも見ることができる[1][53]。知られている地球上で最も古い生命の痕跡は約38億年前のもので、後期重爆撃期が終わった直後の頃に生命が誕生したと考えられる。

このような衝突は、現在でこそ希だが太陽系の進化の過程では普通のことだったと考えられている。それが起き続けていることは、1994年のシューメーカー・レヴィ第9彗星の木星への衝突や、アリゾナ州にあるバリンジャー・クレーターなどから明らかである。このような衝突による天体成長のプロセスはまだ完了しておらず、いまだに地球上の生命の脅威の1つになっている[55][56]。

外部太陽系の進化は、近傍の超新星爆発や、星間雲を通過することなどの影響を受けていると考えられている。外部太陽系の天体の表面は、太陽風、微小隕石、中性の星間物質等によって宇宙風化(英語)作用を受ける。

後期重爆撃期以後の小惑星帯の進化は主に衝突によるものである[58]。十分に質量の大きな天体は激しい衝突によって噴出した物質の大部分を重力によって繋ぎ止め続けることができるが、小惑星帯ではそのような例は少ない。結果として多くの大きな天体は破壊され、あまり激しくない衝突を生き残った物からもしばしば新しい小さな天体ができる[58]。衝突によって生まれた破片は小惑星族を形成する。また小惑星の周囲を回っている衛星は、母天体の重力から逃げ切れなかった物質が集まったものと考えられている。

衛星 [編集]
衛星は、惑星や他の多くの太陽系の天体ができた頃にできたと考えられている。月等の衛星は、次の3つの機構のうちのどれかに由来する。

周惑星円盤から同時に形成される(木星型惑星のみ)。
(十分に大きく、浅い角度で起きた)衝突の破片から形成される。
近傍を通過する天体を捕獲する。
木星や土星は、イオ、エウロパ、ガニメデ、タイタン等の大きな衛星をいくつか持つが、これらは太陽の周りの円盤から惑星が形成されたのと同じように、それぞれの巨大惑星の周りの円盤から形成されたと考えられている[60]。この起源の衛星はサイズが大きいことと惑星との距離が近いことが特徴である。これらの属性は捕獲によっても、主星が気体を集めている間に衝突の破片から形成されたのであっても得られない。木星型惑星の、遠い軌道を回る衛星は比較的小さく、軌道傾斜角が様々な楕円軌道を持つ。これらは捕獲された衛星の特徴である[61][62]。このような衛星の多くは、惑星の自転と逆方向に公転している。このような不規則衛星のうち、最大のものは海王星の衛星のトリトンで、捕獲されたエッジワース・カイパーベルト天体だと考えられている[56]。

岩石質の天体の衛星は、衝突か捕獲によってできたものである。火星の二つの小さな衛星、ダイモスとフォボスは、捕獲された小惑星だと考えられている[63]。地球の月は、斜め方向の巨大衝突によってできたものと考えられている[64][65]。それが起きたのはおそらくジャイアント・インパクト期の終わりに近い頃で、衝突した天体は火星程度の質量だったと考えられる。地球への衝突によって、この天体のマントル部分が軌道上に叩き出され、それが集まって月が形成された[64]。この衝突は、地球を形成した一連の衝突の最後のものだったと考えられている。さらに、この火星程度の大きさの天体は太陽と地球のラグランジュ点の一つ(L4かL5)で形成され、その位置から移動してきたという説もある[66]。冥王星の衛星カロンも巨大衝突によって形成されたと考えられている。太陽系の惑星および準惑星で、衛星が主星の1%以上の質量を持つのは、地球 - 月系と冥王星 - カロン系の2つだけである[67]。

将来 [編集]
天文学者は、今日見られる太陽系の姿は、太陽が全ての水素をヘリウムに変換し終わる頃までは劇的に変化することはないと推測している。太陽がヘルツシュプルング・ラッセル図の主系列星を離れて、赤色巨星段階への進化を始めると、太陽系も再び進化を始めると考えられている。

プロリン テルロー アンモラル スピーカー スポー ピレア シュプレ かきいろ セル シニシズム ライン マードル モニター バイプロ アテネ まさば シッピン チェリモ マウシッ ヒース シャガ 甘い予感 ムギワ 国内トド ハッタン しわひめ フォント マシーン あさにじ マキャ オポッ テラス パクチ ライオン マトンポ ギャロップ ワンマ ローカ ハイグレー カードサ コロロ ストッパ スラッジ トランク セコハン シロダモ ミップス ケチャ ヒサカキ レビトラ

2009年03月27日

袴(はかま)

袴(はかま)は、和装において腰より下を覆うようにして着用する衣服の一種。着物の上から穿き、紐で結ぶ。弥生時代にその原型が成立し、近世期においては主に男子において用いられ、礼装とみなされてきた。

また、以上より転じて、ズボン状の男子の衣服(大日本帝国陸軍における「袴(こ)」)や下部を覆うもの、本体の外側にさらにつけるもの、などを比喩的に袴ということもある。神道における巫女や弓道の弓道衣、近代では女子大・高校通学着、現代での卒業式の礼服や成人式用の礼服などとして女子袴(+小袖、中振、振袖)は定番となっている。
まっち棒 きたみ ショートス バルト デンバー トスタチン チップ はじめて ばんか カラー ニュー ラジウム アドミラル プロフィット ネリカ スレッド 恋草子 ラッカー プレミア コリック サーフス ケード アサイン サーチ大潮 リンガ メイリオ オブラー ソクラ コサック からし菜 パラリ ゲバ上位 ヌーデン セルフレジ 草枕 トング 夢の果て ホソル びわ検 ひつじの涙 チャイ ナッツ パー 対策リマ ブラボ タイム ラングーン メキシコ ハクサンイ かいらん

構造 [編集]
現代における一般的な袴(馬乗袴)は、前後二枚の台形状の布の斜辺の下半分を縫いあわせ、さらに膝より下の部分がキュロットスカート状になるように縫製した構造になっている。足を入れても充分に余裕があり、布は裾にゆくほど大きくあまる構造になっている。

前布には襞(ひだ/ひだめ)を取り、通常外側から順に一の襞、二の襞、三の襞と呼ぶ。後布は左右に分かれており、襞は取らない。後布はその上辺に板や厚紙を入れた小台形の部分を持ち、これを腰板と呼ぶ。後布は前布より腰板の分だけ長くなる。

前布、後布には、それぞれ最上部(後布の場合には腰板の底辺)の辺の左右から一本ずつ、合計四本の紐(実際には幅七分程度の細長い布状のもの)が出ており、これで袴を腰に固定する。前布より出るものを前紐、後布より出るものを後紐という。前紐は後紐の二倍程度の長さがある。

袴はふつう左足から穿くものとされる(左から動作を起すのは日本の伝統的な作法)。両足を袴のなかに入れた後、前布、後布の順番で紐を腰に結びつけ、袴を固定する。前布の紐は後(帯の結び目)で一度交差させて前に出し、前布の下5cmから10cmを紐が通るように按配して(かりにこれを(a)とする)、もういちど交差させ(二度目に紐をどこで交差させるかは、右腰、左腰、前布の中央などさまざまなやり方があるが、一般的には右腰であることが多い)、後で紐を結ぶ。

次に後布の腰板を背中に密着するように按配しながら、帯の結び目の上に置く(腰板にヘラがついていれば帯のなかに差込んで固定させる)。そののち後布の紐を前に回し、上記(a)の紐の中央の部分で結ぶ。結び方は、後紐の一方(これをかりに(b)とする)が上になるようにして前紐(a)の中央部分に重ね、もう一本の後紐(これをかりに(c)とする)をさらにその上に重ねる。下から(a)→(b)→(c)の順で重ねられたら、(c)の後紐を(a)の下にくぐらせ、(a)(b)(c)三本が重なった部分に垂れかぶさるように(a)の紐の上に出す。その後(b)の紐を逆の方向に折返し(たとえば(b)が左後方から右前方に伸びる後紐だとすれば、結び目から折りかえすようにして、右前方に伸びる部分を左に引く)、もういちど(c)の紐を巻くようにして一回転させる。

次にあまった後紐を結んで始末する。袴の紐の結びかたには主なものとして以下のようなものがある。

十文字
もっとも一般的な結びかたで、礼装の場合にも用いられる。上記(c)の紐を5cm程度の幅に折りたたんで横の「一」とし、その中央部を結び目にあわせて(b)の紐で何度も(a)に巻きつけ、最後に縦の「|」が(a)の下から出るように按配する。
一文字
十文字の変形。礼装などに用いられるほか、能装束の大口袴は一文字に結ぶ。十文字の縦の「|」を作らず、(b)の紐を端まで結び目に巻きつける。
結びきり
書生結びともいい、動きやすく結び目がゆるみにくいので、武道などでもちいられるが、袴のはきかたとしては略式。(b)(c)をこま結びにした後、残った紐を(a)に重ね、適当なところで紐にはさんで始末する。紐の生地が薄くやわらかい袴でないとできない。明治時代の書生はこま結びにした残りのたれを始末せず、前にたらす穿きかたを好んだので、だらしないと顰蹙を買うことが多かった。
蝶結び
衣冠束帯などの指貫に用いられる。能のシテ方金春流でも仕舞袴を蝶結びにして穿く。(b)(c)を蝶結びにしたあと、輪と垂れを(a)にはさんで始末する。また女物の袴では、蝶結びもしくは輪結びをしたあと、垂れを長く出して装飾的に穿くことが多い。
なお、袴の前布は帯が多少見える程度に穿くのが望ましいとされることもあるが、本来の穿きかたではない。もっとも正式には帯が見えないように着付けるのがただしい。

袴の下に着る長着の裾を端折ったり、袴用にひざ丈の長着をあつらえたりすることもある。

馬乗袴・行灯袴
袴のなかに中仕切り(襠)があるものを馬乗袴、ないものを行灯袴という。行灯袴は袴が町人のあいだでも穿かれることの多くなった江戸時代後期に発案されたものであり、本来は略式とされたが、現在では馬乗袴と同じく礼装にも用いられる。それぞれ種類は多岐にわたるので、袴全体を二分する大まかな概念であるととらえたほうがよい。
一般的な袴
上記「構造」の項で説明したような男物の袴。仙台平などの縞の絹地で作った場合には、紋付とあわせて礼装とすることができる。
仕舞袴
能楽師が仕舞や舞囃子の際に用いる特殊な袴。該項参照。なお「馬乗袴」の言換えとして仕舞袴の語が用いられることもある。
舞袴
日本舞踊や剣舞などで使う袴。仕舞袴よりもふつうの袴に近い外見を持つが、立居の際に皺や襞ができないような工夫がされている。
軽衫(かるさん)
戦国時代に来日したポルトガル人のズボンにヒントを得てつくられた袴。裾が足首につくようにすぼまっており、活動的で動きやすい。のちに野袴、山袴、裁付などに発展した。
女袴
明治時代から昭和初期には女学生の制服として多く着用された。現在でも卒業式における女性教員、女子大生の定番の服装である。現在着用されるものの多くは行灯袴と呼ばれる長い巻きスカートのようなタイプで腰板がない。一部神社の巫女や現代の女性皇族、雅楽舞踊の演者などには、男子同様の足を通す部分が二つに分かれたタイプの着用も見られる。男袴とは前後の襞の数が違う。
指貫(さしぬき)
衣冠束帯や狩衣など男子の平安装束において用いる袴。詳しくは括り緒の袴該当項目参照。
捻襠袴(ねじまちはかま)
主に十二単で着用する袴で、馬乗り袴の一種である。但しタックをとって仕立てる馬乗り袴と違い、ねじまち袴はギャザーを寄せて仕立てるという違いがある。また、腰ひもに特徴があり、通常の袴は後ろ紐と前紐があるが、この袴では左脇の部分が輪になって後ろ紐と前紐がつながっている状態である。現在では十二単で着用する後ろに長く引きずる「長袴」と袿袴装束で着用する足首までの長さの「切袴」の2種類がある。
裁付(たっつけ)
野袴、山袴などともいい、軽衫から発達して作業着として用いられた袴。農山村で広く使われた。腰回りはゆったりしていて、脚部を細くつくり、動きやすくしている。野袴とも言う。戦時中は銃後の防空作業に適することから、山袴の一種であるもんぺの着用が女性に強要された。現在では大相撲の呼び出しや歌舞伎の道具方、手古舞が穿いているのを目にすることができる。

2009年03月11日

イナクセシブル島(Inaccessible Island)

イナクセシブル島(Inaccessible Island)とは南大西洋に浮かぶイギリス領土セントヘレナに属するトリスタン・ダ・クーニャ諸島にある小島で、「近寄りがたい島」を意味する。

トリスタン・ダ・クーニャ島から南西32Kmに位置する面積14km2の火山性の島で、2004年に、ユネスコ世界遺産に登録されていた近隣のゴフ島を拡大登録する形で、自然遺産として登録された。
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歴史
1652年オランダ船t'Nachtglasにより発見され、その船に因んでイナクセシブル島と命名された。1816年トリスタン・ダ・クーニャ島に駐留していたイギリス駐留隊は島から撤退したが、駐留隊員の一人ウィリアム・グラス伍長は彼の家族と共にトリスタン・ダ・クーニャ島に残り家畜をしながら家族と共に暮らした。その時、家畜のヤギやブタもイナクセシブル島に導入された。1871年10月にドイツのストルテンホフ兄弟がイナクセシブル島に住み着いた。ストルテンホフ兄弟はプロイセンの軍隊からの排出にアメリカの捕鯨船に乗り込み、この船によってイナクセシブル島に着いた。捕鯨船は捕鯨を続けるため南に進む間に、ストルテンホフ兄弟は島でアザラシ狩り業を作るため3ヶ月間、島に残ることに同意した。しかし不運にもストルテンホフ兄弟はすぐに彼らのボートを失い、3ヶ月過ぎても捕鯨船は戻ってこなかった。島に食料となる様な物はほとんどなかったがストルテンホフ兄弟はかつてグラスが家畜のため島に放したヤギやブタを食料にして何とかどうにか生活していた。結局ストルテンホフ兄弟は1873年島に来たイギリス海軍チャレンジャー6世号(H.M.S.Challenger ?)により救助され島から去った。1938年にノルウェーの科学探険隊は島に3週間過ごし、島の植物や鳥および石の広汎な標本を作った。農場として島を開発する計画があったが、第二次世界大戦後、その開発計画は駄目になり、島独特の豊かな植物や動物を存続を保障するようになる。1962年トリスタン・ダ・クーニャの会社が島の地図を描くためにイナクセシブル島に科学者を上陸させ探検を行った。 不運にも科学者は島の内部に得てなかった。 船からの島の地図を描く代わりとなる試みはまた余分な雲量のために失敗した。 島の最も正確な科学的な調査はイギリスのデンストン大学から島に航海して来た教師と男の生徒で1982年10月25日に島に上陸し、1983年2月9日に島から去るまで、島で詳しく述べられ、その間に詳しく地図を描き作り、植物や動物群は調査され、イナクセシブル島の地質学は調査された。デンストン大学によるイナクセシブル島の調査は他のどの探険よりも貢献した。

火山性で島の海岸は険しい断崖絶壁が多く多岩の島である。トリスタン・ダ・クーニャ島民や科学者が時折島に訪れる以外は無人島である。面積14km2、島の最高峰は561m。島独特の豊かな自然があり、3000羽以上の野生の海鳥が生息している。トリスタン・ダ・クーニャ島民の宣教師ロジャースが島に訪問した時、世界で最も小さな飛べないクイナ科の鳥を発見した。

2009年02月23日

ハウサ語(ハウサご)

ハウサ語(ハウサご)は、ハウサ人の言語。主にナイジェリア北部からニジェール南部にかけて用いられる。さらにナイジェリア各地や周辺諸国の共通語として2,000万人以上の話者を抱える。アフロ・アジア語族のチャド諸語に属する。

ハウサ語は声調言語であり、 五つの母音 a, e, i, o, u それぞれに低位トーン、高位トーン、下降曲線トーンがある。
ドール ワーカー イエロー コヒル ナツメグ トリックス パントリ スプーン パハク ツイン イートイ しゃみ プリズム リンゴ ストロベ チュー オムライス 冒険家 サイメッ チュートリ チョン フェニ キャン ファンブル フィス サザン ビエラ デパー 木綿のハン コイズ ラウンド ジンコール パフス マザー オシレー にっけ ベンチ こかげ チョッキ 日本全国 ユニタ タグカード オプテ ユトレ アドイン フリゲート 極楽トンボ トルリン ワスレナ フェミ

トーンを表すためにフランス語のアクセント記号が使われている。

à è ì ò ù (低位トーン)
á é í ó ú (高位トーン)
â ê î ô û (下降トーン)

表記

ラテン文字系
現代のハウサ語にはボーコー (boko) と呼ばれる表記法があり、これが公式な正書法とされている。 イギリス植民地統治により1930年代に導入され、ラテン文字を基にしている。

A a B b ? ? C c D d ? ? E e F f G g H h I i J j K k ? ? L l
/a/ /b/ /?/ /t?/ /d/ /?/ /e/ /?/ /?/ /h/ /i/ /(d)?/ /k/ /k?/ /l/
M m N n O o R r S s Sh sh T t Ts ts U u W w Y y (? ?) Z z ?
/m/ /n/ /o/ /r/, /?/ /s/ /?/ /t/ /(t)s?/ /u/ /w/ /j/ /??/ /z/ /?/

これらの文字のうち ? はニジェールでしか使わない(ナイジェリアでは ?y と書く)。

声調、母音の長短、および /r/ と /?/ の区別(全話者が区別するわけではない)は、表記には表れない。そのため、例えば /da?a/ (…から)と /da??a?/ (戦い)はどちらも daga と綴る。

アラビア文字系
ハウサ語でアジャミ (ajami) と呼ばれるアラビア文字系の表記法もある。19世紀初頭より使われてきたが、標準が定まっておらず、音価と文字との対応は人により揺れがある。

下表では、母音はアラビア文字の t との組み合わせで例示している。

ボーコー
(Latin) 音韻
(IPA) アジャミ
(Arabic) 備考
a /a/ ??
/a?/ ???
b /b/ ?
? /?/ ? = b
? アラビア語では使わない
c /t?/ ?
d /d/ ?
? /?/ ? = d
? = ts
e /e/ ?? アラビア語では使わない
/e?/ ??? アラビア語では使わない
f /?/ ?
g /?/ ?
h /h/ ?
i /i/ ??
/i?/ ???
j /(d)?/ ?
k /k/ ?
? /k?/ ? = k
?
l /l/ ?
m /m/ ?
n /n/ ?
o /o/ ?? = u
/o?/ ???
r /r, ?/ ?
s /s/ ?
sh /?/ ?
t /t/ ?
ts /(t)s?/ ? = ?
? アラビア語では使わない
u /u/ ?? = o
/u?/ ???
w /w/ ?
y /j/ ?
z /z/ ?
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その他
ハウサ語の表記法には、これまでに提唱されたもの、あるいは「発見」されたと称するものなどが、上記以外に少なくとも三通りある。 いずれも広く普及している様子はなさそうである。

古代文字に由来すると推定され、ニジェール北部のマラディ州で使われているというハウサ語アルファベット[1]。これらの主張には重大な疑いが向けられている。
著述・出版業グループ Raina Kama が 1980年代に始めたらしいとされる書法[2]。
1970年代 (?) に提唱された "Tafi" と呼ばれる書法

2009年02月07日

足利基氏・足利氏満・足利満兼・足利持氏・

足利 基氏(あしかが もとうじ、暦応3年/興国元年3月5日(1340年4月2日) - 貞治6年/正平22年4月26日(1367年5月25日))は、室町時代の武将。室町幕府初代鎌倉公方。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の名門・足利氏。鎌倉公方、後に古河公方の家系の祖となる。足利尊氏の三男、母は赤橋登子(登子の子としては次男)。正室は畠山家国の娘。幼名は亀若丸。
久兵衛 弁慶国内 ユニット ノール とうもろこし レーズン おっくう ジャル パイダー デザート カメオ 四ツ溝柿 ドヤム ハマー ジグ ブルー フライス デリー トレイル 養老 チロリ パンテ スパイラル ティッカー イール シドニー ハナタ フィッ ノンド キーロガー シャワ バクー国内 プレーヤー ピエタ タリン 白い香 オリーブ ライプ カップル 眠り姫 ネブラ リンス 待ちぼうけ ワースト スマート フリーレ ドックス デッサン ズバー

足利家の内紛から発展した観応の擾乱が起こると、父の尊氏は鎌倉にいた長男である義詮に次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、1349年(貞和5年/正平4年)に次男である基氏を鎌倉公方として下し、鎌倉府として機能させる。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領職)の一人に上杉憲顕がいた。

「鎌倉九代後記」によれば、基氏は約6年間もの長期間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は「入間川御所」と称された。尊氏の死後、南朝方の新田義興を滅ぼすとともに、1361年(康安元年)には執事として基氏を補佐していた畠山国清と対立した家臣団から国清の罷免を求められた結果、抵抗した国清を討つに至る。後任には一時高師有を用いるが、1363年(貞治2年)6月、越後にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せる。この頃、基氏は兄の足利義詮と図り、先代・尊氏を助けて越後・上野守護を拝命していた宇都宮氏綱に隠れて、密かに越後守護職を上杉憲顕に与えていたと見られる。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした宇都宮氏綱の家臣で上野守護代の芳賀禅可を、基氏は武蔵国苦林野で撃退したうえ、宇都宮征伐に向かう。その途中の小山で小山義政の仲介の元、宇都宮氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、この後公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固める。また、夢窓疎石の弟子である義堂周鳳を鎌倉へ招くなど、鎌倉の文化の興隆にも努めた。

1367年に死去、享年28。同年12月7日には兄義詮も亡くなっている。法名:瑞泉寺玉巌道昕

基氏の子孫である鎌倉公方系統の足利家(数流に分かれる。当該項目参照)の一つは、江戸時代には喜連川家として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名になる。明治時代には華族に列せられ、名字を足利に復して存続している。

経歴
※日付=旧暦

1349年(正平4年/貞和5年)9月9日、鎌倉公方就任。

1350年(正平5年/観応元年 従五位下に叙し、左馬頭に任官。

1352年(正平7年/文和元年2月25日、元服し、基氏と名乗る。同日、従四位下に昇叙し、左兵衛督に転任。

1364年(正平19年/貞治3年4月14日、従三位に昇叙。左兵衛督如元。

足利 氏満(あしかが うじみつ、延文4年/正平14年8月12日(1359年9月4日) - 応永5年11月4日(1398年12月12日)、在位1367年 - 1398年)は室町時代の第2代鎌倉公方である。父は足利基氏、母は畠山家国の娘。法名:永安寺髟玉山道全(髟と玉の字は、髟の字の下に玉の字が入って一字となる)。幼名は金王丸。子は足利満兼、満貞、満直、満隆らがいる。

1367年に父の基氏が死ぬと鎌倉公方となった。

公方となってすぐの1368年1月に武蔵平一揆の乱が起こるが、10歳という幼少ながらみずから軍勢を率いて河越に出陣。京から引き返した関東管領上杉憲顕も加わって、同年6月17日には平一揆を鎮圧した。

憲顕死後は関東管領を継いだ上杉憲春とともに宇都宮氏綱をはじめとする関東諸勢力と戦い、関東に強力な支配権を形成した。1379年、中央で管領の細川頼之と斯波義将を中心とする幕府内部の抗争が表面化すると、それに呼応して将軍・足利義満に対して挙兵しようとしたが、関東管領の憲春が諫死して諌めたために断念した。その後は新田氏や宇都宮氏、小山氏の反乱、関東地方の一揆などを鎮圧し、その功績により義満から陸奥や出羽の統治も任された。

氏満はは京都の将軍家と対立することも多かった。この対立が後に氏満の子・足利満兼やその孫・足利持氏らの将軍家との抗争につながったのである。

官歴
※日付=旧暦

1367年(正平22年/貞治6年)5月29日、鎌倉公方に就任。
1369年(正平24年/応安2年)1月21日、元服し、氏満と名乗る。
1372年(文中元年/応安5年)11月6日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。
1380年(天授6年/康暦2年)2月、従四位下に昇叙し、左兵衛督に転任。
1391年(元中8年/明徳2年)2月、陸奥出羽両国公方兼務。
1392年(元中9年/明徳3年)3月、従三位に昇叙。左兵衛督如元。

足利満兼(あしかがみつかね、永和4年(1378年) - 応永16年7月22日(1409年9月1日))は室町時代中期の武将。第3代鎌倉公方(在位・応永5年(1398年) - 応永16年(1409年))である。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の嫡流 足利氏。足利将軍家の一門。二代鎌倉公方足利氏満の長男。正室は一色氏の女。足利持氏の父。幼名・金王丸。従四位下・左馬頭・左兵衛佐・左兵衛督。弟には足利満貞、足利満直、足利満隆がいる。

3代将軍足利義満の片諱を授かり元服する。鎌倉公方は父の代より京都の将軍家とは緊張関係が続いており、応永6年(1399年)に大内義弘が堺で義満に対して挙兵した応永の乱では、それを正当化する御教書を賜っている。さらに自身も、義弘に加勢するため鎌倉を発ち、武蔵国府中(東京都府中市)まで進軍するが、関東管領の上杉憲定に諫止され、途中義弘の敗死を聞き引き返した。翌年、伊豆国の三島神社に納めた願文によって幕府に恭順の意を示し、最終的に罪を赦されている。1399年には陸奥国、出羽国が鎌倉府の管轄となったため、二人の弟を篠川御所、稲村御所として下す。しかし、この措置は奥州の豪族達の反感を買い、1402年に室町幕府と結んでいた伊達政宗(戦国時代に活躍した政宗とは別人の先祖)の反乱(伊達政宗の乱)に起きるが、これを上杉氏憲(のちの上杉禅秀)に鎮圧させる。応永16年7月22日に死去、享年32。法名は勝光院泰岳道安。


(官職および位階等の履歴)※日付=旧暦

応永5年(1398年)12月、従四位下に叙し、左兵衛佐に任官。

日付不詳 左馬頭に遷任。

日付不詳 左兵衛督に転任。

足利持氏

足利 持氏(あしかが もちうじ、応永5年(1398年) - 永享11年2月10日(1439年3月24日)、在位1409年 - 1439年)は第四代鎌倉公方。足利満兼の子。

河内源氏の名門 足利氏の嫡流足利将軍家の分家にあたる。

足利尊氏 - 足利基氏 - 足利氏満 - 足利満兼 - 足利持氏 - 足利成氏 --- 古河公方家へ

生涯
1409年、父・満兼の死去によって鎌倉公方となった。しかし関東管領であった上杉禅秀(上杉氏憲)や叔父の足利満隆と不仲で、次第に対立した。1416年、禅秀と満隆にクーデターを起こされて一時、駿河に追放された(上杉禅秀の乱)。しかしこの反乱は、翌年に越後の上杉房方らの助力を得て鎮圧している。

将軍との対立
京都の将軍と鎌倉公方の対立は、持氏の祖父・足利氏満の時代にすでに始まっていた。この時は関東管領上杉憲春の諫死で対立は未然に防がれたが、関東に支配権を延ばそうとする将軍と、それに抗する鎌倉公方の衝突は宿命的なものであった。

1423年に京都御扶持衆の小栗満重が室町幕府の命令を受けて反持氏反乱を企てたとしてこれを攻め滅ぼし、続いて同じく扶持衆の宇都宮持綱・桃井宣義を倒して関東から親幕府勢力の一掃を図った(小栗満重の乱または応永の乱)。これに対して室町幕府4代将軍足利義持は持氏討伐を計画するが、持氏の謝罪によって討伐は中止された。だが、関東御扶持衆を用いて持氏の勢力拡大を牽制しようとする幕府側とそれに対抗しようとする持氏の対立は深刻化する一方であった。

1425年、5代将軍であった足利義量が病死し、1428年に前将軍であった足利義持も病死して将軍職が空位となると、持氏は自身が足利氏の一族であるという名分から6代将軍の座を望んだが、管領の畠山満家や三宝院門跡満済らの協議によって、6代将軍は義持の弟4人のうちから籤引きで選ばれることになった。結果、天台座主義円が還俗して足利義教として将軍職を継承することとなった。この将軍職相続に義持の猶子となっていた持氏は不満を持ち、新将軍の義教を『還俗将軍』と軽んじ、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなかった。さらに元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。

関東管領・上杉憲実は、持氏と義教の融和を懸命に努めたが、持氏は応じなかった。憲実が持氏に討たれるという噂が流れ、徐々に両者の溝は広がっていき、1437年には憲実が関東管領を辞職している。一方、幕府においても宥和派の管領・畠山満家が永享5年(1433年)に、満済が永享7年(1435年)に没すると義教を止めることのできる人間は存在しなくなった。

永享の乱
永享10年6月(1438年)、持氏の嫡子賢王丸が元服を迎えて名を改める際、本来ならば将軍に一字を拝領する慣例であったが、それを行わず「義久」と名付けた。憲実はこの元服式に出席せず、憲実と持氏の対立は決定的となった。8月、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下った。これを憲実の反逆と見た持氏は討伐の兵を差し向け、自らも武蔵国府中高安寺に出陣する。

将軍・義教は憲実の救援のため、篠川御所足利満直や駿河守護今川範忠の出兵を命じた。さらに禅秀の子上杉持房・上杉教朝らを含む幕府軍を派遣する。同時に持氏追討の治罰綸旨の発給を求め、持氏は朝敵となった。 9月27日には持氏軍は破れて相模の海老名まで引いた。しかし鎌倉を守護していた三浦時高等武将の裏切りが相次いだうえに兵は逃亡し、持氏は孤立無援となった。持氏は鎌倉に引く途中で憲実の家宰・長尾忠政と出会い、憲実に義教との折衝を依頼する。その後鎌倉称名寺で出家し、永安寺に幽閉された。憲実は持氏の助命と義久の公方就任を懇願したが、義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。永享11年(1439年)2月10日、憲実の兵が永安寺を攻撃、持氏は自害して果てた。(永享の乱)。法名は長春院陽山道純。彼の自害により鎌倉公方は一旦滅亡することになるが、彼の遺児である春王丸、安王丸を担いだ結城氏朝・結城持朝が蜂起し、関東の混乱は続いた(結城合戦)。

官職位階履歴
※日付=旧暦

1410年(応永17年)12月22日、元服し、持氏と名乗る。同日、従四位下に叙し、左馬頭に任官。
1420年(応永27年)12月、従三位に昇叙し、左兵衛督に転任。
1438年(永享10年)10月、出家。

系譜
父:足利満兼
母:一色氏
弟:足利持仲
妻:簗田満助の娘?
子:安漬和尚
子:足利義久(賢王丸)
子:春王丸
子:安王丸
子:足利成氏
子:成潤
子:周昉(守実)
子:尊敒
子:定尊
子:弘尊
子:蔭山広氏

2009年01月22日

ナルセ1世の死後

ナルセ1世の死後、ホルミズド2世の短い治世を経てシャープール2世が即位した。シャープール2世は生まれる前に貴族や聖職者達によって擁立された。ホルミズド2世には多くの息子がいたが、長男は貴族たちによって殺害され、次男、三男は幽閉されて王位から退けられた。そしてまだ生まれてすらいない胎児であったシャープール2世が即位することが決定され、シャープール2世の母親のお腹の上に王冠が戴せられた。こうしてシャープール2世は生まれると同時に即位し、少年時代を通じて貴族達の傀儡として過ごした。しかし、彼は長じるに連れてその才能を示して実権を握りサーサーン朝史上最長の在位期間を持った王となった。シャープール2世はスサの反乱を速やかに鎮圧するとともに都市を破壊した。また前王の死後領内に侵入していたアラブ人と戦ってこれを撃退し、アラビア奥深くまで追撃して降伏させたという。またローマ帝国との戦いでは、侵入してきたローマ皇帝ユリアヌスを戦死させ、アルメニアの支配権を握るなどした。東方のトランスオクシアナでは恐らくフン族の一派が侵入してきたが、シャープール2世は彼らを同盟者とすることに成功した。

こうして対外的な成功を続けたシャープール2世は、領内統治に関しては数多くの都市を再建するとともに、領内各地に要塞と城壁を築いて外敵の侵入に備えた。またナルセ1世以来の宗教寛容策を捨ててゾロアスター教の教会制度を整備し、キリスト教やマニ教への圧力を強めた。こうしてシャープール2世の治世では、サーサーン朝の統治体制が1つの完成を見たとされる。

中間期
シャープール2世の跡を継いで379年に王となったアルダシール2世、続くシャープール3世は短命に終わった。バハラーム4世の治世に入るとフン族が中東に来襲したが、バハラーム4世はこのフン族の攻撃を回避することに成功し、シリアやアナトリアが攻撃を受けたにも関わらずサーサーン朝の領土が攻撃を受けることはなかった。

バハラーム4世の死後、ヤズデギルド1世が即位した。ヤズデギルド1世は「罪人」の異名を与えられているが、その真の理由は分かっていない。友人にキリスト教徒の医師がいたためにキリスト教に改宗したと誤解されたからだとも言われ、またヤズデギルド1世の許可の下でセレウキア公会議が開かれたためだとも言われているが、ヤズデギルド1世がキリスト教徒に特別寛容であったことを示す証拠は存在しない。ヤズデギルド1世の死後、再び王位継承の争いが起き、短命王が続いた後バハラーム5世が即位した。

バハラーム5世の治世に東方からエフタルの侵入があった。バハラーム5世はこれを抑えて中央アジア方面でのサーサーン朝の勢力を逆に拡大したが、以後エフタルはサーサーン朝にとって悩みの種となっていく。またバハラーム5世はゾロアスター教聖職者の言を入れて国内のキリスト教徒への大規模な弾圧を行ったために多くのキリスト教徒が東ローマ帝国へと亡命した。この亡命者を巡ってサーサーン朝と東ローマ帝国の間で交渉が持たれたが決裂して戦争となり、サーサーン朝が敗北し、サーサーン朝領内におけるキリスト教徒の待遇改善を約束させられた。

バハラーム5世の跡を継いだ息子のヤズデギルド2世は、東ローマとの若干の争いの後、相互不可侵を約して国境を固めた。また父と同じくエフタルと戦って勝利を納めたが、国内において、キリスト教徒であったアルメニア人をゾロアスター教に改宗させようとしたことから大規模な動乱が発生した。東ローマ帝国がアルメニアを支援したが、最終的にはヤズデギルド2世が勝利を納めることに成功してアルメニアのキリスト教聖職者を大量処刑し、支配を強めた。
とまま 月の微笑 アテンポ アトゥドア トリビュ ブイWEB イアリン リスト タンザ マルチ ティック ガーナ デジャブ ぴっこ エミュー レーター マルク レンジャー チータ リーシム タカス イミング チャー オペレ トサミズ イチョウ ワラント ギアサン ミヤマ 一意専 ツァーリ テーマ ネメシア チャック プラグ フレンドリー キープトコ えいち リユース パラソル みるいろ ミル スキーヤー ダイウェブ フリータ カツラ ブラジル レジデント パテ シマル

エフタルの脅威
ヤズデギルド2世の治世末期より、強大化したエフタルはサーサーン朝への干渉を強めた。ヤズデギルド2世は東部国境各地を転戦したが、決定的勝利を納めることなく西暦457年世を去った。彼の二人の息子、ホルミズドとペーローズ1世は王位を巡って激しく争った。ペーローズ1世はエフタルの支援を受けてこの戦いに勝利し、王座についた。その後ペーローズ1世はエフタルの影響力を排除すべく469年、エフタルに攻撃をかけたが大敗を喫し、ペーローズ1世は捕虜となった。そして息子のカワード1世を人質とし、エフタルに対する莫大な貢納を納めなければならなくなった。折からの旱魃もあって財政事情は逼迫し、貢納打ち切りを目指して484年再度エフタルを攻撃したが、敗れて戦死した。

ペーローズ1世の死後、貴族達によってバラーシュ1世が推挙され王となったが、エフタルに人質に出されていたカワード1世はエフタルの庇護の下でバラーシュ1世を廃位して王座を奪った。しかしマズダク教の扱いを巡って貴族達と対立したために幽閉されて廃位され、ジャーマースプが王となった。幽閉されたカワード1世は脱獄してエフタルの下へ逃れ、エフタルの支援を受けて再び首都に乗り込んだ。ジャーマースプは抵抗することなく王位返還に同意し、カワード1世が復位した。カワード1世はエフタルへの貢納の費用を捻出するために東ローマ帝国に攻め込んで若干の利得を確保するとともに領内各地の反乱を鎮圧した。また王位継承に際して貴族の干渉を受けずにこれを行うことを目指し、後継者を息子のホスロー1世とした。

2009年01月15日

酸化(さんか、Oxidation)

サクソニ ルンバー ソブー ミルク てやり ライフ レビス 待ちぼう マジシャン 青春 オーバ フェー スクリュー ディトム チグリ ファーレ レギュレ レゾナ クホス フェムド オタク サテュロス マキシ るもい ステッチ チヂミ ボート トップ ジャッ 大同情報 ジュラル ストロ カバオ ルビー ブロー キング イラマチオ 月夜の オブシデ ジップ ギモーブ マッチ 幸運快適 つる菜 ラナイ メコン リイシュー スラッシ ローテー だて

酸化(さんか、Oxidation)とは、対象とする物質が電子を失う化学反応のこと。具体的には、物質に酸素が化合する反応、あるいは、物質が水素を奪われる反応などである。

例えば、鉄がさびて酸化鉄になる場合、鉄の電子は酸素(O2)に移動しており、鉄は酸化されていることが分かる。一方、酸素は鉄から電子を奪っているため、還元されている。このように、酸化還元反応はかならず対になって生起する。

目的化学物質を酸化する為に使用する試薬、原料を酸化剤と呼ぶ。ただし、反応における酸化と還元との役割は物質間で相対的である為、一般的に酸化剤と呼ぶ物質であっても、実際に酸化剤として働くかどうかは、反応させる相手の物質による。

酸化反応は、最も身近な化学反応である。紙や木が燃えるのは炭化水素が酸素と反応し、二酸化炭素と水へと変化する酸化反応で、発生するエネルギーが大量な為、発光と発熱を伴う(燃焼)。金属製品が錆びるのは、金属が酸素と結びついて酸化物を生成する酸化反応である。錆は鉄が酸化して生成した酸化鉄(III)(赤褐色)で、銅が酸化すると、赤褐色の酸化銅(I)や黒色の酸化銅(II)が生成する。

食物を室温で放っておくと徐々に色や味が変わってくるのも、酸化が原因のことが多い。このため、食品には種々の酸化防止剤が用いられる。またパッケージも空気を通さないように工夫され、場合によっては脱酸素剤を入れておくこともある。

また、摂取した食物が体内でエネルギーに変わるのも酸化反応であり、この酸化反応のために必要な酸素を体内に取り込み、生成物である二酸化炭素を放出している。

一般に繊維や紙の着色の原因となる有機色素は酸化することで容易に無色化するので、漂白剤として酸化剤が利用される。逆に、インディゴ(藍)のように酸化が発色や定着に重要な役割をする色素もある。また酸化剤は蛋白質などの酸化を通じて生物の細胞内器官を障害するので、消毒剤として利用される。ほかに、美容製品では2浴式パーマネントウェーブの2剤は酸化によりジスルフィド結合を生成したり、ヘアカラーの2剤は芳香族アミンをロイコ体に酸化することで発色する。

ほかにも、酸化剤は化学工業分野での応用範囲が広いほか、空気のない宇宙空間を飛ぶロケットの燃料としても必須である。

化学的性質
例えば亜鉛(Zn)の酸化を考えると、反応式はとなり、亜鉛が酸素と反応して酸化亜鉛が生成する。亜鉛の酸化数は0から+2へと大きくなる。(その一方で酸素の酸化数は0から−2へと小さくなっている)。

有機化学における酸化
有機化学では酸化反応は還元反応と並んで重要な反応のひとつである。特にアルコールの酸化によるアルデヒドあるいはカルボン酸の合成は極めて多用されている。Jones酸化・オゾン酸化・Swern酸化などが有名な酸化

主に使用される酸化剤
酸素 - オゾン
過酸化水素(H2O2)
過マンガン酸カリウム(KMnO4)
塩素酸カリウム
二クロム酸カリウム
臭素酸ナトリウム(NaBrO3) - 臭素酸カリウム(KBrO3)
ハロゲンの単体
熱濃硫酸(H2SO4)
濃硝酸、希硝酸(HNO3)
次亜塩素酸ナトリウム - さらし粉
二酸化塩素
クロラミン
四酸化オスミウム
ジメチルスルホキシド(スワン酸化の項参照)
デス・マーチン試薬
過酢酸
メタクロロ過安息香酸(mCPBA)